1999.7.30付 「東方日報」

香港ラウンドで、コータくんに魅せられてすっかりファンになってしまった、香港の女の子、キャリー・レイちゃんから、以下のような香港の新聞記事を送っていただきました。
英語に簡単な日本語を織り交ぜて(勉強家!)、記事の広東語の翻訳文もつけてくれましたので、私がさらに日本語に訳したものを付けておきますね。

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<訳>
1ヶ月前、吉原宏太は札幌では有名だったが、彼の人気は日本全国に渡るものではなかった。そして彼は怪我の高原直泰選手の代わりに、オリンピック2000アジア地区予選でU-22日本代表候補に選ばれた。彼はチーム内で唯一のJ2の選手であった。それから、「吉原宏太」の名前は有名になった。そして、彼は怪我をした中山雅史選手の代わりに国際試合「コパ・アメリカ」へ出場するチャンスを得、彼のマジック・ストーリーは続く。

吉原は大阪で生まれた。彼が小学一年生のとき、彼の母・節子さんは彼をサッカー少年団に入団させた。そして、高校生のとき、彼は「全国高校選手権」で得点王になった。この栄誉が彼の人生を変えた。彼はサッカープレイヤーになることを決めた。しかし、彼はJ1の2つのチームの入団テストに不合格だった。結局、彼はコンサドーレ札幌に入団した。その最初の試合で、彼は2ゴールをあげた。今や、彼は札幌でもっとも人気のあるサッカー選手である。

吉原の父・吉原康雄さんは、息子のことについて笑ってこう語ってくれた。「宏太が東芝に入ったとき、私は彼にご褒美としてボルボを買ってやった。コンサドーレ札幌がJ1に昇格したとき、私は宏太に「何が欲しいか」と聞いたら、「ポルシェが欲しい」と言った」 吉原は日本代表チームに入った今、彼の父親はまた何か買ってやらなくてはいけないのか?!

コンサドーレ札幌の岡田武史監督は、吉原は羅馬尼奥(?)と同じだと言った。彼が他の選手と違うのは人気だけではない。彼は90分平均にして3.3ゴールをあげている。この結果で彼は日本代表チームの椅子をものにした。吉原が高校生だったときのベテラン選手、釜本邦茂さんは「彼はすべてのゴールチャンスをものにできる」と言った。

今回、吉原はパラグアイへのチャンスをつかむことができた。われわれはこのすばらしいサッカー選手が国際試合で有名になれることを心待ちにしている。

なーんかちょっと「事実とちがーう」なところもありますけど・・・(^^;;

↓そして、この記事には、こんなアイドルみたいなプロフィール紹介コーナーも・・・(^^;;;
なんということか、このホームページの写真がすっかりパクられてます。香港には著作権だの肖像権だのって概念がないんですよね、そういえば・・・(^^;;;;
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↑「吉原宏太の笑顔はあふれんばかりの太陽の光のようだ。サッカー選手になっていなかったら、彼はモデルとして生計を立てることができているだろう」だって!おいおい!!

Special Thanks to Carrie (HongKong)

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